世界が認める超絶技巧。日本で3名のみ与えられた「独立時計師」が誕生するまで

2022年7月15日

日本で3名にのみ与えられた称号。独立時計師へのハードル

「独立時計師」という職業を知っていますか?

独立時計師とは、メーカーや企業などに所属せず、自分の腕一本で唯一無二の作品を生み出す超絶技巧の時計職人のこと。2022年6月現在、その肩書を名乗ることが許されているのは、世界に35名、日本に3名のみ。

独立時計師になるためには、その職人の集まり「独立時計師アカデミー」の承認が必要なのですが、これがとても狭き門なのです。まず、正会員2名から推薦を得て、世界的な時計の見本市「バーゼルワールド」などでアカデミーが出展するイベントに自分の時計を出品。そこで時計の独創性を認められると、準会員に。準会員はその回を含めて4年間で3回、アカデミーの展示会に出展し、メンバーからその実力を認められると正会員になります。

日本で3人目の独立時計師として活躍するのが、牧原大造さん。牧原さんにとって、2022年4月3日は一生忘れられない日となりました。その前後、3月30日から4月5日まで、牧原さんはスイスのジュネーブにいました。独立時計師アカデミー主催の新作展示会「マスターズ オブ オロロジー」に参加していたのです。

2019年、日本人の独立時計師2人から推薦を得てバーゼルワールドに出展し、準会員になっていた牧原さんは、2021年4月にジュネーブで予定されていた展示会「ウォッチ・アンド・ワンダー」にも出展予定でした。これがコロナ禍で中止になってしまったのですが、今年の「マスターズ オブ オロロジー」に出向いた際、「去年の出展もカウントされているから、今回、あなたを正会員として認めるのか、総会で議題に上がる」と告げられて、にわかに緊張感が増しました。

正会員のみが参加できる総会が行われたのが、4月3日。午後、ソワソワしながら招待を受けた展示会場に行くと、独立時計師のメンバーが牧原さんのところに寄ってきては、小さな声で「イエス!」と言い、握手を求めてきたそうです。正式発表まで合否を口にしてはいけない決まりになっているものの、「家族みたいですごく温かい」という独立時計師たちは、牧原さんに祝福を告げたくて、フライングしてしまったのです。

迎えた18時、急に静まり返った会場で、アカデミーの創設者から「コングラッチュレーション!」と認定証が渡されると、会場は盛大な拍手に包まれます。こうして、牧原さんは日本で3人目となる「独立時計師」の称号を手にしたのです。2007年、27歳の時に時計の仕事を志してから、15年が経っていました。

独立時計師アカデミー総会の様子

昂る時計熱。料理人は時計の道へ

1979年、名古屋で生まれた牧原さんは、幼いころから「細かな作業」と「分解」が好きな子どもだったそうです。中学生になると、料理に魅せられるように。たまたま図書室で手に取った本に、白鳥や鳳凰の形に野菜を飾り切りにした写真が載っていたのです。その細工を見て「すごい!」と興奮したのがきっかけで、将来は料理の道に進もうと心に決めました。

地元の農業高校に進学した1995年ごろ、スニーカーブームがやってきて、牧原さんもナイキの「エアマックス」などレアスニーカーの収集を始めました。そのスニーカー熱を一気に上回ったのが、時計熱。1997年、木村拓哉と松たか子が主演のドラマ『ラブジェネレーション』が放送された際、木村拓哉がつけていた時計「ロレックス エクスプローラーI」が話題になり、ロレックスブームが起きました。

ロレックスを特集した雑誌や本が次々に出版され、時計の内部を図解する特集を見ているうちに、「細かな作業」と「分解」好きの血がうずきました。時計のことをもっと知りたいと思ったのですが、当時はインターネットの情報も乏しく、どこで時計について学べるのか分かりませんでした。それで中学生の時の目標通り、1年間、調理の専門学校で学んだ後、イタリアンレストランではたらき始めました。

就職してからも時計熱は冷めず、学生時代からの貯金と給料を合わせ、さらにかつて収集したエアマックスなども売却し、20歳の時に30万円で「オメガ スピードマスター」を購入。牧原さんにとって、忘れられない一本となります。

憧れの時計師とサプライズ対面

料理人としてはたらきながら、趣味で時計を楽しんでいた牧原さんが時計の仕事に興味を持ったのは、友人がきっかけです。

「25歳の時、友人とルームシェアを始めました。その友人が通っていたのが『ヒコみづのジュエリーカレッジ』で、ジュエリーを作る学生を育てているところでした。その友人から、ヒコみずのジュエリーカレッジにウォッチコースがあるよって聞いたんです」

高校生の時、「時計を学びたい」と思いながら諦めた過去があり、社会人になってからも時計の本を読み漁っていた牧原さんは、躊躇なく入学を決めました。8年間、料理人としてはたらきましたが、その道を離れることに迷いはありませんでした。

牧原さんは、ルームシェアをやめて実家に戻り、奨学金を得て、2008年、27歳でウォッチコースに入学。学校に通い始めると、毎日が驚くほど充実していました。

「すべての授業がほんとに楽しかったですね。朝は、学校が開く前から扉の前で待って、学校が開いたらすぐに校舎に入って教科書を読んだり、課題に取り組んだりしていました」

この前のめりな姿勢が、周囲にも伝わっていたのかもしれません。2年生の時、学校に『1億人の大質問!?笑ってコラえて!』という番組の取材が入り、学生として取材を受けることになります。スタッフが最初に取材に訪れた時、「憧れている時計師さんは誰ですか?」と聞かれた牧原さんは「フィリップ・デュフォーさんです」と答えました。デュフォーさんは「時計界の至宝」と評されるスイス人の独立時計師。雑誌などで見聞きした彼について知る限りのこと、そしていかに彼を尊敬しているかという自分の思いを話しました。

すると後日、学校の事務職員から「今日、学校休みなんですけど来れますか?」と電話が来たのです。特に用事もなかったので学校に行くと、図書室で待っているように指示されました。しばらくして、ガチャッと扉を開けて入ってきたのは番組スタッフ。カメラも回っています。何ごとかと思っていると、同じ質問をされました。

「あなたの憧れてる時計師さんは誰ですか?」

「フィリップ・デュフォーさんです」

「会ってみたいですか?」

「それは会えるものなら……」

戸惑いながらも答える牧原さんに、番組スタッフが嬉しそうに告げました。

「では、行きましょう!」

なんと、番組のサプライズでスイスへデュフォーさんを尋ねることになったのです。24名いたクラスメイトの中でこの幸運に恵まれたのは、牧原さんともう一人の後輩だけ。海外旅行に行ったことがなかった2人は慌ててパスポートを取得して、番組スタッフとともにスイスへ飛びました。

心の師匠と過ごした2日間

フィリップ・デュフォーさんは親日家で、過去にヒコみずのジュエリーカレッジのウォッチコースで講義をしたこともあり、2人を快く迎えてくれました。許された滞在時間は2日間。牧原さんは憧れの職人の工房で、早朝から夜中まで教えを受けました。

「面取りといって、ネジ一つからすべてのパーツをきれいに磨き上げる技法があるんですけど、デュフォーさんは面取りに力をいれていて、『これが私の代名詞だ』と言っていました。私もデュフォーさんの面取りに感銘を受けていたので、2日間、特殊な道具の使い方からみっちり教えてもらいました」

技能の差は、圧倒的でした。金属を傷一つなく磨き上げると、光を当てた時に黒く光ります。これは「ブラックポリッシュ」と呼ばれ、非常に高度な技能が求められます。デュフォーさんの仕上げは、すべてが「ブラックポリッシュ」です。

その技術を学んだのに、デュフォーさんが1日で終える作業を、牧原さんは丸2日経っても終わりませんでした。番組の演出で「OK」が出たものの、カメラが回っていない時に、「製品にするには甘い」と指摘されてしまいます。その差は一目瞭然でした。自分の未熟さを実感したこの2日間で、牧原の心のスイッチが切り替わりました。

「私が通っていたのは、時計の修理士を育てるプログラムです。そこで時計の修理だけを習っていた私が、デュフォーさんのもとで製作の技術を学んだことで、スイッチが入りました。私も時計を作りたいって思ったんです」

牧原さんの仕事場。細かな部品を扱うため「整理整頓も仕事のうち」

リーマンショックにより理想の進路が閉ざされる

短い滞在を終えて帰国すると、「どうしたら時計を作れるのか」を考えるようになりました。しかし、当時の日本には独立時計師がいなかったため、ロールモデルとなる存在がいませんでした。2010年、修理師としてはたらくという現実的な選択肢も捨てきれないまま3年生に進級した牧原さんは、就職ガイダンスを受けてショックを受けます。

「学校に入る前にパンフレットをもらった時、『主な就職先』の最初にロレックスと書いてあったんです。それを見て、自分もロレックスでデイトナを直せたら最高だなと思っていました。でも、そのガイダンスの時に、『皆さんに悲しいお知らせがあります、今年のロレックスの求人はありません』って言われて。リーマンショックの最中で、10何年続いていた求人がなくなったんですよ」

就職するならロレックスと理想の進路を思い描いていた牧原さんは、目標を失い「頭が真っ白になった」と振り返ります。この出来事がきっかけで、本格的に時計の製作に舵を切ることになりました。

その道で唯一の先人は、ヒコみずのジュエリーカレッジのウォッチコースの先輩で、2008年に卒業後、研究生として学校に残り、地下室で時計作りに没頭していた菊野昌宏さん。菊野さんは1年で2本の時計を作り上げたことが評価され、翌年、同校初の時計製作を教える講師に抜擢されていました。

独立時計師を目指していた菊野さんは、講師を務めながら時計製作を続けていました。その様子を生徒として眺めていた牧原さんは、3年間のカリキュラムを修了後、菊野さんと同じ道をたどり、研究生になります。ほかに4人の同級生が研究生となり、1年間かけての時計作りが始まりました。

菊野さんは牧原さんの4つ年下で、ほかの研究生も年齢が近かったこともあり、講師と生徒という関係というより、部活の雰囲気に近かったと言います。6人でああでもない、こうでもないと話し合いながら手を動かしているうちに、毎日が過ぎていきました。

彫金が拓いた道

自身のオリジナリティを追求する上で牧原さんの武器になったのは、金属に彫刻を施す「彫金」の技術。学校に入った年、授業で世界的な彫金師として知られる金川恵治さんのDVDを見て、「やってみたい」と思い、それ以来、YouTubeなどを見ながら独学で学んでいました。

時計の業界では、彫金師は一つの確立された職業。そのため、パテックフィリップなど大手時計メーカーも、彫金に関しては外注しています。独立時計師の中にさえ彫金の技術を持つ人はほとんどいないのですが、牧原さんはどん欲に時計づくりと彫金、どちらの技術も自分のものにしたいと思っていました。

その情熱が、道を拓きます。彫金もできることを評価した講師の一人が、茨城に当時あった機械式腕時計専門店(現在は閉店)を訪ねて、「うちに面白い学生がいるんだけど、一度学生の作品を見てもらえないか?」と問い合わせてくれたのです。

そこに彫金を施した製作中の時計を持参したのが縁となり、のちにそのお店とコラボして時計を作る仕事に発展しました。ただ、それだけで食べていける収入にはならなかったので、学校の同級生の紹介で契約社員として店舗で時計の販売、受付をしながら、平日の夜と土日を時計の製作に充てました。

さまざまな縁から生まれた「菊繋ぎ紋 桜」

コラボは3年続き、計20本の時計を製作。その後、販売、受付を続けながら2年をかけて一人で開発したのが、「菊繋ぎ紋 桜」です。文字盤に不老長寿を表す菊花が連なる伝統紋様「菊繋ぎ紋」が江戸切子によって施され、裏面には自身の手で桜の紋様が彫金されています。

「菊繋ぎ紋 桜」

「独立時計師になるためには、大手のブランドには作れないような時計を生み出せることが条件です。時計師と彫金師という2つの技術を活かすこと、世界で初めて江戸切子を使用することで、自分にしか作れない作品になると考えました」

もともと伝統工芸に興味を持っていた牧原さんは「誰も時計に使ったことがない」という点に着目して、江戸切子を選びました。青山で開催された若手職人の作品展で出品者の連絡先を教えてもらい、「0.5ミリのガラスに切子で菊繋ぎ紋を施してほしい。話を聞いてもらえませんか?」と全員にメールを送ったところ、1社だけ、埼玉県草加市にあるミツワ硝子工芸から返信がありました。

協力してくれた同社から試作品が届いた時、クオリティの高さに驚愕。牧原さんはすぐに工房を訪ね、「ぜひお願いします」と頭を下げました。

「菊繋ぎ紋 桜」の製作にあたって、頭を悩ませたのは時計のケースです。桜の彫金を際立たせるためにピンクゴールドを使用したかったのですが、自分で加工するのはコストと手間からして現実的ではなく、外注するには100本単位で頼む必要がありました。

そこで突破口になったのは、何年も前の出会い。研究生の1年を終えて卒業制作の展示をした際、株式会社ケイ ウノの社長が観に来ていました。時計の部署を広げたいという意向があり、時計を作れる人を探していたそう。牧原さんの作品に目を留め、声をかけてくれていたのです。

ピンクゴールドのケースを作るにあたって「ケイウノ」のことを思い出した牧原さんは、手紙を出しました。すると、オーナーは牧原のことを憶えていて、ケースの製作を快諾してくれたのです。

時計づくりの道を歩み始めた当時、縁があって受け継いだという1963年製の機材。現在も牧原さんの工房で大切に使われています。

フィリップ・デュフォーさんとの再会

こうして2018年、「菊繋ぎ紋 桜」が完成。1本600万円の値段をつけ、メディアや時計のブロガーに連絡を取ったところ、数社が取り上げてくれました。その記事を見た百貨店から「イベントをやりませんか?」とオファーが届きます。

最初に開催したのは、札幌の三越伊勢丹。2週間の展示で、一組の夫婦が興味を持っていると連絡が来ました。胸を高鳴らせながら札幌に向かい、直接、時計の説明をすると、その場で購入を決めてくれました。

「三越伊勢丹からチラシが届いたらしいんですよね。それを見て、奥さんが興味を持ってくれたみたいで。『江戸切子の部分に美しさを感じたからうちの旦那に勧めたのよ』と言ってくれました。正直、あの時は頭がふわふわしていてあまり覚えていないんですが、とにかく何度もお辞儀をしてお礼を言いました」

牧原さんは、「菊繋ぎ紋 桜」を独立時計師への第一歩としようと、先に独立時計師になっていた菊野さん、もう一人の独立時計師、浅岡肇さんに連絡を取り、推薦人になってもらいました。

迎えた2019年3月、スイスで開催されたバーゼルワールドで、志願者として独立時計師アカデミーのブースで初出品。彫金も手掛けていることや江戸切子をメンバーから称賛され、こだわった仕上げに関しても「なんの文句もない」と評価を受けて、準会員として認められました。

この時、フィリップ・デュフォーさんにも、時計を見せることができました。デュフォーさんは時計を受け取ると、ルーペを当てました。なにも言わず、じっとルーペに目をやり、時計の隅々を確認しています。その時間が妙に長く感じ、息が詰まるような心地がしましたが、ルーペから目を話したデュフォーさんが牧原に向かってニヤリとほほ笑み、親指を立てた瞬間、すべての苦労から解放された気がしました。牧原さんは心の師匠から合格点をもらい、「サンキューベリーマッチ」を連発しました。

2,200万円の時計「花鳥風月」   

デビュー作「菊繋ぎ紋 桜」を国内外で8本売った牧原が次に挑んだのが、「花鳥風月」。文字盤に再び江戸切子を使用し、メジロのつがいと桜がデザインされています。ムーブメントの地板には、日本の代表的な伝統紋様である麻の葉紋を、自ら彫金。月の満ち欠けを表す機構「ムーンフェイズ」も導入しました。

「花鳥風月」

もっとも実現に時間を要したのは、時間が進むにつれて花が開き、決まった時間になると閉じるというほかにない仕掛け。花びらをうまく稼働させるために、200枚から300枚の花びらを使って試行錯誤を繰り返したといいます。コロナ禍でイベントなどが軒並み中止になり、製作に集中できたことが功を奏しました。この時計によって、牧原さんは正会員に認められたのです。

花鳥風月の価格は、2,200万円。既に、2名から予約が入っています。

「ある日、フランスのパリにある一つ星レストランの日本人オーナーから連絡いただいたんです。2人の常連さんが時計好きで、『菊繋ぎ紋 桜』が欲しいと言っていて、私と日本語でやり取りしてくれないかと頼まれたそうです。それでパリに行ったのですが、『花鳥風月』を発表した後だったこともあり、一人の方から『花鳥風月』も欲しいと言われて」

その後、レストランの日本人オーナーを通じてやり取りを続け、今年の「マスターズ オブ オロロジー」の際、日帰りでパリへ向かい、「花鳥風月」の実物を見せに行きました。そこにはもともと欲しいと言っていたフランス人のほかにドバイ出身のアラブ人もいました。時計を愛する2人は「花鳥風月」を見て目を輝かせ、牧原さんはその場でそれぞれからオーダーを受けました。

「今はまだ『菊繋ぎ紋 桜』のオーダー分を製作しているので、2人に時計を届けるのは1年以上先になります。それでもいいですか?」と尋ねると、2人は「問題ない。素晴らしいものを作ってくれればそれでいい」とほほ笑みました。

牧原さんの時計は、一本製作するのにおよそ10カ月かかるそう。「独立時計師」として作品を作る中で、どんな時に喜びを感じるのでしょうか?

「時計を届けて、蓋を開けてもらった瞬間に『うわー』ってお客さんが喜ぶ顔を見ると、報われたと感じます。でも、一番は時計を使ってもらうことですね。納品して何年後かにオーバーホール(時計を分解しメンテナンスを行うこと)を依頼される。外側が傷だらけになって戻ってきても、メンテナンスをすればきちんと動く。時計職人としては、その瞬間が一番幸せかもしれません」

(文:川内イオ 写真:yoshimi)

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稀人ハンター川内イオ
1979年、千葉生まれ。ジャンルを問わず「規格外の稀な人」を追う稀人ハンターとして取材、執筆、編集、企画、イベントコーディネートなどを行う。世界に散らばる稀人に光を当て、多彩な生き方や働き方を世に伝えることで、「誰もが稀人になれる社会」の実現を目指す。
近著に『農業新時代 ネクストファーマーズの挑戦』(2019)、『1キロ100万円の塩をつくる 常識を超えて「おいしい」を生み出す10人』(2020)。

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