お金で揉める家庭に育った“コールの女王”がnoteで3億稼ぐ。20代キャリアは「可能性を潰せ」。

2025年12月22日

スタジオパーソルでは「はたらくを、もっと自分らしく。」をモットーに、さまざまなコンテンツをお届けしています。

今回お話を伺った下田美咲さんは、読者モデルから「コールの女王」と呼ばれるタレント・パフォーマーになるという異色の肩書きを経て、現在はnoteで総額3億円という驚異的な実績を誇る作家として活躍しています。

ただ、これまで芸能事務所を渡り歩き、夢に破れ、何を見ても面白くないほど精神的に追い込まれた時期もあったと言います。それでも失敗を恐れずに挑戦を続け、自分らしい道を切り拓いてきた下田さんのお話には、我々の常識を揺さぶるような「はたらく」ヒントが詰まっていました。

成功か死ぬかの2択。事務所は1年未満しか続かず4つ転々とした

──下田さんは、子どものころから「はたらいてお金を稼ぎたい」と思っていたと聞きました。どんな背景があったのでしょうか?

うちの家族、お金のことでよく揉めていて。そんな環境にいたからか、揉め事の多くはお金で解決できることだと幼いころから思っていたんです。それにお金って、命や愛情に比べたら“自分で”用意ができるものじゃないですか。用意できるようなものに振り回される人生は嫌だなって。

だから「何があっても困らないほどのお金持ち」になりたいと思ったんです。

もし家族に300万円が必要になったとして、そのときに自分が300万円しか持っていなかったら快くお金を出すことはできない。かなりのお金持ちにならないと、お金のトラブルを平気で解決できる力は持てないだろうから。

──小学生のころから「本を出したい」という夢も持っていたそうですね。

小学校6年生ぐらいのときに、さくらももこさんの『もものかんづめ』を読んだのがきっかけでした。かなりブラックな話もあったのですが、それがすごく面白くて。つらかった体験もエッセイだったらネタとして生かせてお金にできるんだなと思ったし、それが多くの人から評価されている事実にもすごく希望があるなと。生きてたら人生で嫌なことって絶対にあるから、その全部をネタにできる仕組みが欲しくて、「売れっ子エッセイストになりたい」と思ったんですね。

そこで、実際にエッセイを書いている人の経歴を見てみたら、エッセイストからスタートしている方はほとんどいなかったんですよ。「ほかのことで一旗あげた人がエッセイを出すのではないか?」という仮説を立てた私は、エッセイのために、まずはどうにか有名になってみようと思いました。

ただ、小学生で有名になる手段って、芸能界くらいしかないじゃないですか。うちの家庭はそれほど裕福ではなかったので、劇団に入るお金は出せない。親からも「芸能界に入りたいのなら、中学生になってから原宿にでも行って、スカウトされて入りなさい。そしたらお金がかからないから」って言われて。

だから、中学生になってすぐ、スカウトされるために原宿へ行きました。そこで本当にスカウトされて、モデルの仕事をはじめることになったんです。

──芸能界で成功する保証はないですし、リスクもあったと思いますが、それでも挑戦できた理由を教えてください。

当時、家庭環境のこともあって人生に絶望していた私には、成功するか、死ぬかどちらかしかなかったんです。普通に生きてたらまずお金持ちにはなれないけど、お金持ちになれない人生は私にとって死ぬことよりも嫌だったし、恐ろしかった。だからこれまでずっと、選んだ道がもしダメだったときの保険なんて1ミリも考えずに生きてきました。そもそも一般的な保険って、私にとっては保険として機能してないから意味がなくて。

ただ、芸能活動をスタートした先は苦難の連続で。16歳までに4つほど芸能事務所を転々としました。どこも在籍期間はすべて1年未満でしたね。担当マネージャーから「美咲の売り方が分からない」と嘆かれてしまったり、逆に「美咲最高!」と私にだけのめり込みすぎてほかのタレントのマネジメントとのバランスを欠いてしまう人もいて、そうなると解雇されてしまったり。

16歳のときに入った事務所が音楽系の会社だったのですが、その会社の社長からの気まぐれな課題がきっかけで、はじめて作詞作曲に挑戦しました。音楽は未経験で音符すら読めなかったのですが、「美咲は顔しか良いところがない」と言っていた事務所の人たちが、私の曲をとても褒めてくれたんですよ。「こんなこと考えていたの?」と、特に歌詞を絶賛してくれて。エッセイと同じで嫌なことをネタへと昇華できる作詞は、自分が求めていたはたらき方で最高だと思ったんです。そうして音楽にどんどんのめり込んでいきました。

でも、そうなると、それまでは「やる気あります!頑張ります!」と言えていたモデルやタレント業への意欲を持てなくなってしまって。当時は「20歳までに売れたい」と思っていたので、限られた時間をすべて音楽の修行に費やしたくて。一方で、当時所属していた事務所は「まずはモデルやタレントの活動をしてほしいので、音楽デビューは二の次」という考えでした。

音楽に向き合う自分のものすごい熱量を知ったことで、「そもそも、モデル・タレント業に対してはここまでのやる気を持てていたことがなかった。私ってずっと、本気でも全力でもなかったんだ……!」と気付いたこともあり、事務所を退所することにしました。

ただそのあとも、音楽関係者と人のツテは持ち続けながら、ほかにもつながりを広げていったり、パーティーに呼ばれたら即参加したりと行動は絶やさなかったんです。そうして事務所を辞めて約半年が経ったころ、あるホームパーティーに呼ばれました。たまたま隣に座った方に「音楽をやっています」と話したところ、「ぼく、大手レーベルの社長と親しいから会わせてあげるよ」と、思わぬチャンスをいただきました。

音楽業、ゴールデンボンバー、コールの女王……できることを確認するために駆けまわった約10年

──大手レーベル会社の社長の方と会える。そんな大きなチャンスを目の前に、当時はどんな心境でしたか?

正直、「まだ歌や作詞作曲の実力もないし、今紹介してもらっても意味がないんじゃないか……」と思う気持ちもありました。でも、可能性が1%でもあるなら挑んだほうが得だし、仮にデビューにつながらなかったとしても損することは何もないと思ったので、会うことを決めましたね。結果的に、ここで動いたからこそ縁がつながっていったんです。

後日、本当に大手レーベル会社の社長室へ呼ばれて、少し社長と話をしたら「じゃあいったんカラオケにでも行こう」と言われて。私は歌が上手いわけではなかったので、とにかく声の大きさやインパクトで勝負しようと、石川さゆりさんの『天城越え』とX JAPANの曲を全力で歌ったんです。そしたら「その意気込みが面白い」と評価されて、本当に社長に面倒を見てもらえることに。歌のレッスンや楽曲制作の課題に明け暮れる日々がはじまりました。

そこから18歳まで順当に経験を積んで、高校卒業後は当然ここからデビューをするものだと考えていたのですが、高校卒業直前に急に社長が会社から退くことになってしまって。社長のお気に入りだったから面倒を見てもらえていたのに、その社長がいなくなってしまう。デビューの道が、突然途絶えてしまいました。

──CDデビューの道が途絶えてからは、どのようにキャリアを歩んでいったのでしょうか?

社長が、私が書いていたブログを見て「音楽も良いけど、君には文章が向いている。50代が読んでも面白い。本気で書いてみるのも良いと思うよ」と話してくれたこともあり、「ここで一度、本を出すために本腰を入れて行動してみよう」と思ったんです。

社長が、退任までの最後の1カ月でできることがあったらしてあげるから、とも言ってくれて。「じゃあ1冊書き下ろすので印刷してください」と伝え、本当に1カ月で1冊分の原稿を書き上げて、社長に100部ほどプリントアウトしてもらいました。その原稿を持って出版社にアポイントを取りまくったり、異業種交流会などに行ったり、あのときはとにかく行動しまくりましたね。ただ、なかなか簡単には出版は実現しませんでした。

同時に、エッセイストとしての夢とは別に、どうしても出演したかったテレビ番組があったのですが、制作会社に対してどうアプローチを取っても番組出演はかなわず……。かなわない理由も不本意で。

それからは、行動すればするほど萎える業界事情に触れてしまうことも増えていきました。そして、とある出来事をきっかけに気持ちがプツンと切れてしまったんです。一切の意欲がなくなり、何を観ても面白いと感じなくなりました。当時の私は、鬱に片足を突っ込んでいたのだと思います。

──そこからどのようにして気持ちを立て直していったのでしょうか?

夢に向かって行動する気が起きなくなった中で、ふと「私には思い出がなさすぎる」と思って。13歳から結果を出そうと常に努力をしてきたから、生産性のない時間の過ごし方を全然してきていなかったんです。“ただの楽しい思い出”みたいなのが全然ないなって。そこで、「仕事に対するモチベーションがない今、もういったん思い出づくりに全振りしてみよう」と考えました。夏は海に行って騒ぐなど、とにかく遊んで暮らしていたある日、カラオケでパーティーソングを歌ったらそれまでずっと低いところを漂っていた気持ちが突如として浮上していく感覚があったんです。気持ちがプツンと切れて以来、はじめて力がみなぎってきた。

──パーティーソングに救われた過去があったんですね。

そうなんです。何を見ても笑えなくなっていた私を笑顔にしてくれたパーティーソングに魅了されていく中で、あるとき友達から「美咲、絶対に好きだから見て!」とゴールデンボンバーというバンドを教えてもらいました。そこで彼らのパフォーマンスをYou Tubeで見た瞬間、「なんて面白い人たちなんだ!」とすぐに虜になって。彼らと一緒に活動することを心に決めて、いつ新メンバーが募集されても即戦力になれるように、ゴールデンボンバーの強みである面白い動画をつくれるようになろうと、1年で200〜300本の動画をつくってYouTubeに投稿しましたね。

「コールの女王」と呼ばれるようになったのも、ここで動画をたくさん制作したからなんです。投稿したうちの一つ、“コール大好き下田美咲のコール講座”が話題になり、合コンや飲み会シーンを盛り上げ活性化したことを評価していただき『合コンアワード2013』で「飲み会コール賞」をいただきました。そこから、「コール日本一の盛り上げ女王」として多くのテレビやメディアで取り上げていただけるようになって。

ただ、みなさまご存知の通り、「ゴールデンボンバーのメンバーになる」という夢はかないませんでした。ゴールデンボンバーが好きすぎて狂ったモデルとしてテレビで特集を組まれるところまでいって、自分としては「これは公開オーディションだ」と思って臨んだので……。その放送を終えてもゴールデンボンバーに入れなかったときに、やっとあきらめがつきましたね。

可能性は若いうちに「潰して」道を見つけると良い

──そこからどのようにして現在のnoteでの活動へとたどり着いたのか教えてください。

エッセイストになりたいと思ったところから、まずは有名になるための手段としてモデルやタレント業、音楽活動をしたり、バンドメンバーになることを目指して動画制作に注力したり。その夢たちはかなわず、挫折したこともありましたが、こうして行動すればするほど「できないこと」が分かり、残った「できること」が明確になっていったんです。そして、じゃあ「“できること”をやろう」と自分が進むべき道を絞れるようになって。挑戦してきた数だけ判断材料が増えたんです。なので、この時期までに自分が起こしてきたアクションは、自分にとってはすべてが有益なデータに変わり、「自分という人間の取説」として今に活きています。

「本を出す」という夢自体は、24歳のときにコールで掴んだ知名度のおかげでかなったのですが、それですぐ「売れっ子エッセイスト」になれたわけでもなく。転機となったのがnoteとの出会いでした。

27歳のころにnoteを始めて、それからすぐ、結婚したことを機に盛り上げ女王の活動を停止し作家業一本に絞ったんです。それからの9年間で約8,000本を投稿してきたのですが、ほぼすべてが有料記事です。最初に有料記事として出したのが、周りの人からよく聞かれる話をまとめた「【美咲式スキンケア】美肌の非常識」と「管理食レシピ集」で。私は昔から肌が弱くて、肌のことでたくさん悩んできました。それから体重や体調の管理にも苦労してきて。体調でいうと、特に眠気や集中力の管理が難しくて、撮影の真っ最中に寝落ちしてしまうこともありました。それで、スキンケアや食事法の研究に明け暮れる日々を送ってきたんです。快適な人生を掴み取りたくて。

そうやって長年研究してきたスキンケアと心身の調子を整える食事についてまとめたこの2本が、どちらもいきなり爆売れしたんですよ。初月で40〜50万円、2カ月目からは数100万円規模で売れるようになって。ほかにも恋愛に関するテーマや日々のエッセイ、ビジネス論などを投稿してきて、気付けば総売上が3億円に到達していました。

──小学生のころに見つけた「エッセイを仕事にしたい」という原点から、noteで3億円以上稼ぐエッセイストになった今、快適にはたらくために下田さんが大切だと感じることはなんですか?

一つは「得意なことを仕事にする」ことです。得意なことは効率良く成果につながるし、稼ぎやすい。たとえば私はモデルの仕事が好きというよりも得意で、人より早く撮影を終えられていた上に成果を出せていました。笑うのは苦手でしたが、そのぶん得意な方向性に振り切って取り組んでいたので、事務所を退所したあとも継続的にお仕事をいただけていましたね。

ただ、得意なことを見つけるには、自分が持つ手札の中で「どこがお金になるか」と、自分をよく観察しながら探っていく過程が必要不可欠です。その上で、実際にやる前からイケるかどうかなんて分からないから、挑戦して地道に可能性を一つずつ潰していく。挑戦って、言い換えれば自分の「これだ!」を見つけるための確認作業なんですよね。

モデルをして、音楽活動をして、あれこれやってきた私も、まさかコール動画で一気に知名度を獲得するようになるなんて思ってもなかったですから。エッセイストとして活動し、noteでは3億円売れるようになったのも、こうして確認作業を重ねて、自分の可能性を明確にした上で、「この道しかない!」という危機感を集中力に変えて取り組んできた結果なんだと思います。

──最後に、スタジオパーソルの読者である「はたらく」モヤモヤを抱える若者へ、「はたらく」をもっと自分らしく、楽しくするために、何かアドバイスをいただけますか?

繰り返しにはなりますが、可能性はできる限りすべて試してみるのが良いと思います。若いうちに「できること」じゃなくて「できないこと」をはっきりさせて、自分の可能性を潰して道を定めていくんです。できるかな、と思って行動してない人って、全部できる可能性があると思っているんですよ。自分に対する期待値が高すぎる。でも実際にはできないことのほうが多いし、どれが当たるかなんて分からないからこそ、早く「これならイケる」を見つけるためには、どんどん動いたほうが良い。若いときは何かと許されやすいし、助けてくれる人も多いし、体力もある。若さは本当に尊いので、早いうちにやり切ってください。

そして、夢は10年、20年かけてかなえるものも多く、なんならかなわないことのほうが多い。だから、かなわなかったら「人生楽しくなかった」と思ってしまうような下積み時代はすごさないほうが良いと思います。もし夢がかなわなかったとしても「この道のりが楽しかった」と思えるようにはたらいてほしいです。

圧倒的に行動して、とにかく可能性を潰していくこと。楽しい時間だけを積み重ねていくこと。この2つさえあれば、夢がかなうかどうかに関係なく、はたらく人生そのものが青春になると思います。

「スタジオパーソル」編集部/文:朝川真帆 編集:いしかわゆき、おのまり 写真:朝川真帆

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ライター朝川真帆
フリーランス取材ライター。住宅系コミュニティマネージャーとしても活動中。2021年、新卒でコンビニの会社に入社し、数年後結婚を機に上京・退職。2023年に取材ライターとして独立した。現在はキャリアや事例導入、グルメなどのジャンルをメインに執筆中。フジロックのファンサイト、フジロッカーズオルグでもライターとして活動中。管理栄養士資格を持っている。関西出身。

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