「僕が仕事を辞めて、主夫していい?」主夫のパイオニアが経験した、孤独と希望の17年間

2021年11月18日

内気な少年、主夫になる

まだ、「イクメン」という言葉が存在すらせず、子育ては母親が担うのが当たり前だった18年前、「主夫」になる道を選んだ男性がいます。2003年に長女が誕生した際、看護師の妻と話し合い、テレビの報道カメラマンの仕事を辞めて、自分が主体的に子育てに携わるという大胆な決断をした和田のりあきさんです。

アルバイトをしながら子育て中心の生活を始めた和田さんは次第に注目を集める存在になり、やがて先進的なパパとして全国の自治体が企画する父親支援講座などで講演やワークショップを請け負うようになりました。

周りに誰一人として主夫がいない中、なぜそうなろうと思い至ったのでしょうか。そして、主夫になった時に見えた景色とは。「イクメン」の先駆者に話を聞きました。

和田さんは1974年、京都の西京極で生まれました。両親と弟の4人家族。人前に立って話をする機会も多い今の和田さんからは想像できませんが、「めちゃくちゃ内気」な子ども時代だったそうです。

「友だちからは、和田君はぜんぜん喋らないし暗いって言われていましたね(苦笑)」

外で友だちと遊ぶより、家で静かに本を読んでいるのが性に合っていた和田少年は、10歳の時、『忍術・手品のひみつ(学研プラス)』という本から手品に興味を持ち、練習するようになりました。しかし、特に披露する機会もなく、ひとりで黙々と腕を磨いていました。中学、高校と個人練習を続けていた手品が役に立つのは、もう少し経ってからのことです。

映画の道を志し、カメラマンに

高校生の時は特にやりたいことがなく、卒業してから2年間、フリーターをしながら将来を模索。そのうちに、小学生のころからSFや特撮映画が大好きで、「将来は、『スターウォーズ』の新作を撮りたい」という夢を持っていたことを思い出し、1994年、京都科学技術専門学校の映像音響学科に入学しました。

2年間、映像の撮影技術とシナリオ、美術、デザインを総合的に学んだ和田さんは夢をかなえるためにも映画の道に進みたかったのですが、当時の日本映画はまったく人気がなく、低迷していました。求人もなかったため、いずれ映画につながればと、テレビ番組の製作を請け負う大阪の映像プロダクションに就職しました。

当時からテレビ業界はアウトソーシング化が進んでいて、テレビ番組は主にテレビ局からオーダーを受けた外部の映像プロダクションが製作しています。和田さんの会社はテレビ大阪から仕事を請けることが多く、和田さんはテレビ大阪の報道スポーツ部に派遣されました。

最初の2年間は、「修行」。カメラアシスタント(CA)として機材車を運転し、三脚とバッテリー、テープを背負って現場を駆け回りました。

3年目から、少しずつ報道カメラマンとして仕事を任されるようになり、1998年の夏に起きた「和歌山毒物カレー事件」では、何日間も現場に張り付いたそう。報道スポーツ部なのでスポーツの仕事も多く、野球の試合を撮ったり、地方に出張して競艇のレースの映像を撮ったりする仕事もありました。阪神タイガースの野村克也監督に密着した時には、少々苦戦したと言います。

「高知県の安芸で行われた秋のキャンプの取材に行ったんですけど、野球に興味がないという致命的な欠点があって、野球を撮るのがほんまに下手やったんです(笑)」

「僕が仕事を辞めて、主夫していい?」

テレビの仕事は昼夜を問わず、仕事に追われていた和田さんの人生を大きく変えたのは、長女の誕生でした。

2002年、公立の大きな病院の看護師としてはたらいていた女性と結婚し、間もなく子どもができました。和田さんは最初のころ、「妻が仕事を減らすか、規模の小さな病院に移って仕事の量を減らして、子育てをするだろう」と考えていたそうです。当時の日本社会では、「男が外で稼ぎ、子どもは妻が看る」というのが当然とされていたから、和田さんの妻も同じように捉えていたと言います。

ところが出産が間近に迫ったある日、妻の「看護師の仕事にやりがいを感じている。これまでと同じように仕事を続けたい」という思いを知りました。和田さんも妻の気持ちを大切にしたいという想いがあり、それならベビーシッターを頼もうかという話し合いを重ねていた時に、ふっとアイデアが湧きました。

「僕が仕事を辞めて、主夫していい?」

想定外の言葉に妻は戸惑い、瞬間的に「この人なに言ってはんの?意味分からん」と思ったそう。それは「男ははたらき、女は子育て」という常識に反する提案だったからです。

思い付きではありましたが、和田さんは口にした瞬間、心から「主夫になりたい」と感じていました。というのも、この話し合いがもたれる少し前、このアイデアが生まれるきっかけになったとも言える出来事があったのです。

何かが「プチッ」と切れた日

和田さんの妻は妊娠中、体調が不安定でした。そのため、外で撮影がない本社勤務の日は、自分の仕事が落ち着いたら定時(11時~19時)で帰るようにしていました。その事情を説明していたにも関わらず、ある日、上司から「みんなを置いて自分だけ帰るようなやつとは、これから仕事しにくいな」と言われたのです。この時、和田さんは「僕の中で、何かがプチッと切れた」と振り返ります。

この出来事で、和田さんの中で「仕事よりも家族を大切にしたい」と優先順位がハッキリ定まったからこそ、主夫になるという選択肢が浮かんだのです。そして長女が生まれた日、和田さんは腹をくくりました。

「娘は帝王切開で生まれたので、手術室から看護師さんが抱っこして連れてきはったんですけど、めっちゃ小さい赤ちゃんを見た時に、この子と離れて何週間も取材現場に行ったり、競艇中継の出張に行くのはイヤだと思ったんです。この時に、主夫になろうと決めました」

会社に辞意を伝えた時、予想通り「は?なに言ってんの?」という冷たい反応が返ってきました。それでも、気持ちは少しも揺らぎませんでした。

主夫になって1週間で鬱に

2004年3月いっぱいで会社を辞めた和田さんは、育休中だった妻と入れ替わりで、4月1日から主夫になりました。ウキウキしてやる気満々だったのに、和田さんの表情は、わずか1週間で、妻に「あんた、顔死んでんで」と言われるほどに暗く沈みました。

「主夫になった瞬間、喋る相手がいなくなったんですよ。近所に子育て友だちがいるわけでもないし、妻は看護師の仕事をして疲れて帰ってきはるし。急に赤ちゃんと二人だけになって、社会との関係性がぶちっと絶たれた感じで、それがしんどかったのかなあ。あっという間に鬱状態になってしまいました」

当初の予定では、3歳ごろまで子育てに専念しようと考えていましたが、それは難しいと実感。5カ月後、娘が1歳になったタイミングで保育園に入れて、アルバイトを始めました。

いくつかのアルバイトをした中で、最も居心地よくはたらけたのは映画館の売店。そこは子育て中の主婦が多く、お互いに子育ての苦労を共有しているからこその助け合う関係があったそうです。たとえば、子どもが保育園で37.5度以上の熱を出すと、保護者がすぐに迎えに行かなければなりません。その時、いつも「大丈夫、なんとかするから!」と送り出してくれました。同じ職場の学生たちも、快くサポートしてくれたと言います。

主夫の背中を押したママたちの反応

アルバイト先と違い、保育園では「主夫をしている」と打ち明けるまでに時間を要しました。和田さんは毎日、保育園への送り迎えをしていたから、同級生のママたちも気になったのでしょう。「和田さんってお仕事何してはるの?」と聞かれた時、「主夫です」と答えることができず、「うちは僕の方が勤務時間が短いので、僕が送迎してます」と濁すような回答しかできなかったそうです。この時はまだ、気恥ずかしさや周囲からどう思われるのか不安もあったのだと言います。

そのモヤモヤが晴れたのは、子どもを介して保護者同士で交流するようになってから。いつまでも隠しておくこともできず、「ぶっちゃけ、アルバイトしながら主夫してるんですよ」と話すと、特にママたちが「え!パパ、偉い!」と褒めてくれました。

保育園の同級生はどの家庭も共働きをしているのに、「子育ては母親」が当たり前という時代に自ら主夫になる道を選んだ和田さんは、多くの女性に賞賛されたのです。「主夫は褒めてもらえるんや!」と気付いてからは、主夫を隠さなくなりました。

とはいえ、ずっと主夫をしているつもりもありませんでした。子育てが落ち着いたら何か仕事に就こうと考えていて、思いついたのは保育士です。

「自分の子も、よその子もかわいかったから、子どもに関わる仕事が良いなと思ったんです。調べてみたら、通信教育で8科目を3年かけて勉強すれば資格が取れると分かりました。2005年から勉強を始めて、2007年に資格を取得しました」

広がる活動の場

保育士の資格を取った年、和田さんは箕面市が運営している「ファミリーサポート」事業で、臨時職員として週3日、コーディネーターをすることになりました。

この事業は、何かしらの事情がある保護者に代わって援助会員が保育園の送り迎えをしたり、短時間子どもを預かったりする制度で、コーディネーターは、預ける側と預かる側をマッチングさせる役割を担います。主夫で時間に余裕があること、保育士の資格を持っていることから、この仕事にスカウトされたのです。3年契約で、週3日はコーディネーター、週2日は映画館ではたらくようになりました。

主夫になって以来、保育園とアルバイト先という狭い人間関係の中で暮らしていた和田さんは、この仕事を得てさまざまな援助会員やユーザーと関わり、視野が広がったと言います。

同時に、和田さんの活動の幅も広がっていきます。保育園では、たまたま2年目にくじ引きで保護者会の役員になったのがきっかけで、保育園の催し物で手品を披露するようになりました。保育園唯一の主夫で手品も上手い和田さんは、図らずも目立つ存在になり、最初の娘が最終学年になった2008年には保護者会の会長を務めました。

同じ年、「笑っている父親を増やそう」という理念を掲げるNPO法人ファザーリング・ジャパンが全国で実施した「子育てパパ力検定」を受験。成績上位5%に送られる『スーパーパパ』の称号を得て、翌年、ファザーリング・ジャパンの会員に。そして2010年には、ファザーリング・ジャパン関西を設立し初代代表に就任しました。

空前のイクメンブーム到来

ファミリーサポートのコーディネーター、保育園の保護者会会長、ファザーリング・ジャパンの初代代表と、主夫、パパとしての和田さんが活躍し始めた2010年、「イクメンブーム」が到来します。これは、前年に育児・介護休業法が改正され、厚生労働省の主導で「イクメンプロジェクト」がスタートしたのが背景にあります。「イクメン」は2010 年の新語・流行語大賞になりました。

空前のイクメンブームの中で、ファザーリング・ジャパンには全国の自治体から「パパ向けの講座をやりたい」と問い合わせが殺到。そのうち、「年間54カ所で講座を開催したい」という兵庫県からの依頼を、ファザーリング・ジャパン関西で仕事として請け負うことになりました。

「月13万円の1年間の契約で、僕ともう一人のメンバーで担当しました。主夫として話してくださいと言われたのには、ビックリしましたね。初めての講演は『イクメンパパはてんやわんや』というタイトルでした(笑)」

このオファー以降、ファザーリング・ジャパン関西の代表、そしてイクメンの先駆者として引っ張りだこになった和田さんは、自治体やNPO・NGO団体からの依頼で講演やワークショップが生業の「プロ主夫」のような存在になりました。

こうした活動と、以前に取得していた保育士の資格が評価されたのでしょう。2017年には、知り合いの紹介もあり、大企業が運営する小規模保育園の園長に就任しました。

保育園での職を手放して起業した理由

その保育園で1年2カ月、園長を務めた後は、NPOが運営する別の保育園の副園長に就きました。そこで10カ月ほどはたらいた後、独立を決めます。主夫を卒業した後の仕事として考えていた保育園での仕事から短期間で離れたのは、「しんどかった」から。

「もともと報道カメラマン時代も組織に息苦しさを感じていたんですが、保育園もしっかりとした組織で、子どもの保育をするというより、中間管理職のような役割でした。ファザーリング・ジャパン関西の代表として活動していた時は、自分の意見をなんぼ言ってもよかったんです。でも、保育園の職員になるとすごく発信しにくくなって。会社の方針もあるし、保育士、保護者、子どもたちもいるしと考えると、板挟みになって自分がどんどん小さくなっている気がして、しんどかったんです

もっと自分らしく、伸び伸びと仕事がしたい。そう思った和田さんは2019年、「子どもをワクワクさせる大人になる!」をモットーに、マジックを使ったコミュニケーション術で大人と子ども、大人同士をつなぐ事業を展開する「マジックパパ」を設立しました。イクメンや主夫というこれまでの自分を形作ってきた肩書を手放したのは、世の中の変化も影響しています。

「僕がファザーリング・ジャパンに加入した時、男性の育休取得率は1%台でしたが、今は12%あります。これはある意味、すごい変化で。保育園の送り迎えをするパパの割合も圧倒的に増えました。それに、赤ちゃんを連れて歩いている夫婦の8割9割は、パパが抱っこをしているか、ベビーカーを押しています。10年以上前はそんなパパはほとんどいなかったから褒めてもらえましたけど、今は当たり前。街の子育て風景はガラッと変わりましたね」

報道カメラマン、主夫、保育園の職員という異色のキャリアを経て、小学生のころから好きで続けてきたマジックという原点に戻った和田さん。コロナ禍で新たな活動もままなりませんでしたが、ようやくスタートラインに立てそうです。これから、人生の第二幕が開けるのです。

(文:川内イオ 写真:山元裕人)

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稀人ハンター川内イオ
1979年、千葉生まれ。ジャンルを問わず「規格外の稀な人」を追う稀人ハンターとして取材、執筆、編集、企画、イベントコーディネートなどを行う。世界に散らばる稀人に光を当て、多彩な生き方や働き方を世に伝えることで、「誰もが稀人になれる社会」の実現を目指す。
近著に『農業新時代 ネクストファーマーズの挑戦』(2019)、『1キロ100万円の塩をつくる 常識を超えて「おいしい」を生み出す10人』(2020)。

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